監督:Moira Armstrong
脚本:Derek Mahon
原作:Jennifer Johnston
舞台はまだイギリスの支配下にあった頃のアイルランド。
裕福な大地主のひとり息子アレックスは、正規の学校教育を受けず、近所に住む子供たちとも身分違いだからと交際を許されなかった。 彼の両親の夫婦関係は冷え切っており、周囲から隔絶された孤独な環境の中で、偶然知り合った労働者階級の少年ジェリーとこっそり遊ぶことだけが、彼の心の慰めとなっていた。やがて第一次世界大戦が勃発し、成人したアレックスは母の希望で軍隊に志願し、ジェリーと同じ部隊に配属される。ただしアレックスは士官、ジェリーは一兵卒として。 集団生活の経験がないアレックスには軍隊生活は戸惑いの連続で、上官からもジェリーとの交際をやめるよう命じられる。 ある時ジェリーの母から激戦地で行方不明となった父を探しに行って欲しいという手紙が届いたが、規律を重んじる部隊長は彼の希望をはねつける。こっそり父を探しに行ったことが発覚してジェリーは銃殺刑という重い処分を言い渡されるが、その死刑執行の合図をするよう命じられたのはアレックスだった。処刑前夜、ジェリーの房を尋ねたアレックスは・・・
BBC製作、ダニエル・ディ=ルイスの初主演作品。
冒頭の神父との語らいの場面に、そして回想シーンの出征の日に口をついて出てきたのは、マザーグースの「バビロンまで何マイル?」だった。
How Many Miles to Babylon?
Three score miles and ten.
Can I get there by candle-light?
Yes, and back again.
If your heels arenimble and light,
You may get there by candle-light.参照:『マザー・グース (3)』
谷川 俊太郎(訳)平野敬一(監修) 講談社文庫二行目は「Three score...」としているもの、「Four score...」としているものなどバリエーションがあるようだ。この映画では「Four score...」となっている。注:ここで使われている「score」は20の意味。他に使用例としては、「人民の人民による人民のための政治」というフレーズで有名なリンカーンのGettysburg Addressの冒頭「Four score and seven years ago(=87年前) our fathers brought forth on this continent, a new nation...」を思い出す。
労働者階級のジェリー(Jerry)の本名が「ジェレマイア(JEREMIAH)」という大仰な響きを持つものだったことを知って、思わず笑ってしまうアレックス。 旧約聖書に起源を持つ名前で、敬虔なカソリック家庭に生まれたからともとれるが、この名前にはもう少し深い原作者の意図が隠されているように思えてならない。
JEREMIAHは旧約聖書「エレミア記(Book of Jeremiah)」を書いたとされるヘブライの預言者で、「エルサレム滅亡」、そして「バビロン捕囚」を預言したことで知られる。 このような絶望的な神の言葉を伝えた者として、「JEREMIAH」という言葉には「(未来についての)悲観論者」という意味があるくらいだ。 この映画の原題「How Many Miles to Babylon?」と、預言者エレミアの「バビロン捕囚」が呼応しているのではないか。 英語圏で育った者がこの名前を聞けば、即座にバビロンのことを思い出しただろうから。
アレックスは池で泳いでいるジェリーを見つけ、彼の服をシャクナゲ(rhododendron)の茂みの中に隠してしまう。 花が咲いている場面はないが、シャクナゲはアイルランド中でよく見られる木で、あちこちに植えられ、また自生している。
アイルランドといえば、ウォーターフォード・クリスタルをはじめとして質の高いクリスタル製品の名産地。 アレックスの家もクリスタルや銀食器など素晴らしい逸品があふれている。
Glendinning少佐に「カトリックか?」と尋ねられた時、アレックスははっきり否定しているので、彼の育った家庭がプロテスタントのアングロ=アイリッシュ(英国からの入植者)であることがわかる。第一次大戦当時のアイルランドはまだイギリス領で、イギリスから入植してきた資産家や貴族たちが上流階級として、多くのアイルランド人労働者たちの上に君臨していた。
しかしアレックスの父は「私はイギリス人(Englishman)になりたいと思ったことはないし、私の息子もそうさせたくない。」と、複雑な感情を吐露している。
体が弱いからという理由でアレックスは正規の学校教育を受けず、家庭教師を招いて勉強していた。
彼が成人した時、「最初はギリシャかしら」と母はここまでの教育の総仕上げにとグランド・ツアーを提案。結局彼は母と一緒にイタリアに美術品を観に行く旅行に出た。
グランド・ツアーとは、(主にイギリスの)上流階級の子弟がそれまでの教育の総仕上げとしてしばしば行ったヨーロッパ大陸巡遊旅行のこと。
ベネット曰く「学校では権威者に適度に逆らうことを教えてくれるんだ」「クリケットをやるといろいろなことが学べる・・・人生は予見できないこととか。」
正規の学校教育を受けていないアレックスは、同じ年頃の子供たちと一緒に学ぶ機会を持たなかった。 パブリックスクールでの徹底的な上下関係や、クリケットを頻繁に行う様子は、『アナザー・カントリー』Another Country(1984) でも描かれている。
Glendinning少佐がAlexに説教する場面。「学校にいっていないから、指導力と奉仕(Leadership & Service)を学んでいないのだ。」この「Leadership & Service」という理念も、しばしば上流階級の子弟が通うパブリックスクールで掲げられているもの。 こうした学校では社会の中心となって人民を指導すると同時に、慈善事業や軍務などさまざまな分野で社会に奉仕する「ノブリス・オブリージュ(高貴な身分に生まれついた者は、より多くの義務を負う)」精神を叩き込まれるもの。
アレックスとベネット、ジェリーが三人でフランスのカフェに入った時のこと。
上流階級のアレックスとベネットはぺらぺらとフランス語を話せるが、平民であるジェリーだけはカフェの主人の言葉がわからない。こんなことからも、上流階級の教育水準がわかる。また、戻ってきたジェリーに"ベネットの軍服を借りて逃げろ"と勧めるが、ジェリーは「ひとことでも口をきけば将校でないことがばれる」と。 上流階級と下層階級ではしゃべり方やアクセントからしてまったく違うからだ。
アレックスが父の前で読んでいた詩、そして前線の塹壕の中でふと呪文のように口をついて出てきたフレーズ「遥か彼方に神秘なる薔薇のありて」は、アイルランドの詩人W.B.イエイツ(1865-1939)の「The Secret Rose」だった。
The Secret Rose by W.B. Yeats
FAR off, most secret, and inviolate Rose,
Enfold me in my hour of hours;(詩集_The Wind Among the Reeds_より)
アレックスの母は戦争のニュースを「Irish Times」で読んでいる。現在も存在する高級紙。
www.ireland.com
アレックスの母は知人のクリストファー・ボイルという男(姓からしてアイルランド系であろう)が、フランドル戦線で戦死したという知らせにショックを受ける。 フランドル戦線(ベルギー)は第一次大戦でも激戦地として知られた場所。
「アイルランドに徴兵制はない」とはいえ、母はアレックスに軍に志願するよう懇願する。1918年にアイルランドに徴兵制がしかれそうになった時、猛反発が起こったそうだ。
アレックスの父の台詞「お前には土地のために最善を尽くしてもらいたい。人から取り上げた土地だ。いつか時がきたら彼らに返してやらなければ。」見渡す限りの広大な敷地を所有する大地主であるアレックスの父は、小作人や使用人たちを大勢抱える雇い主としての責任感も大きい。まず「土地が第一(Land must come first.)」という、土地に対する想いの大きさが感じられる。小作人の立場からの土地への思いを描いた作品としては『ザ・フィールド』The Field (1990)などがある。
馬に乗ることが好きなアレックスとジェリーは、何度か著名な競馬場の名を口にする。
Ascot, New Marcket, Epsom, Cheltenham...それぞれイギリスの有名な競馬場。www.ascot.co.uk
www.newmarketracecourses.co.uk
www.epsomderby.co.uk
www.cheltenham.co.uk
出征前夜にアレックスは、ジェリーたちが篝火を囲んでカントリーダンスをしたり酒を飲んだりしているところに出くわす。 ダンスの伴奏は、フィドル(バイオリン)などの伝統楽器。
アレックスは地方自治派(Home Ruler)を支持しているようだ。台詞にパーネルの名前も出てくる。 Charles Stewart Parnell(1864-91)は、アイルランド議会党を率いて、1880年代からアイルランドの自治を目指して活動していた。
パーネルもこの作品の舞台となったウィックロウ出身。こうした活動が実を結んでついにホーム・ルールが制定されたのは第一次大戦直前、1914年のこと。ちょうどこの作品の時代背景と一致するので、アレックスとジェリーがホーム・ルール問題について論議していたのもわかる。ジェリーは地方自治論に否定的な反応を示すが、シン・フェインも地方自治論を良しとしなかったようだ。
しかし、1918年の総選挙でシン・フェイン党はアイルランド議会党(Home Ruler)はシン・フェイン党に大敗を喫する。1916年のイースター蜂起失敗で高まった反映感情と、第一次大戦中に導入された徴兵制に対する反発があったためだ。
ジェリーは共和主義者で、出征の前夜アレックスに「今はシン・フェインのために働いているのかと思った」と言われていた。共和主義者(リパブリカン)とは、アイルランドの独立とイギリス支配からの脱却を目指す者のこと。シン・フェイン党(Sinn Fein http://sinnfein.ie)は、1905年アーサー・グリフィスによって、アイルランド独立を目的として設立された政治団体。
ジェリーは「軍隊に入ったのは銃のことを学ぶためだ。実戦を知っている数少ない人間になれる。」と、第一次大戦が終わった後の(武力闘争も辞さず独立のために戦うという)アイルランドの未来を既に視野に入れている。
ジェリーが脱走した時、単に「敵前逃亡」というだけでなく「反逆者」の疑いもかけられた。イギリスに対する反発から、敵を利する行為に出たと思われたのだ。
「裏切り者のアイルランド人がドイツのために戦っているのだ。君の国で起こっていることは知っているんだよ。」
「アイルランド人は自分を抑制することさえできないのに、国を治めたがる」
アレックスの母は、息子が労働者階級のジェリーと密かに逢っていることを知り、ふたりの付き合いを禁じる。
また軍隊でも、規律を保つために「兵と将校の間で話をしてはいけない」と言い渡され、アレックスはジェリーとの関係を絶つべきだと警告されている。上流階級の子息は軍に入りたてでも最初から将校に、労働者階級出身者は二等兵(private)からはじめて、せいぜい軍曹(sergent)がいいところ。
塹壕の中でも紅茶を飲む場面が。砂糖が不足しているさまが描かれている。
戦争中は、配給品である紅茶や砂糖は貴重品だったそうだ。
ハーモニカを吹くかわりに、ジェリーが最期にくちずさんだ歌は「THE CROPPY BOY」というアイルランドのトラディショナル・バラッド。「Croppy」というのは1798年の反乱(ウルフ・トーンらを中心とするユナイテッド・アイリッシュメンによる反英闘争)の際にWexford(から参加した青年たちが髪を短く刈り上げていたことから。歌詞にはいくつかバージョン違いがあるが、この映画で歌われているのはCarroll Malone(William B. McBurney)によるもの。
"Good men and true! in this house who dwell.
To a stranger bouchal I pray you tell,
Is the priest at home? or may he be seen?
I would speak a word with Father Green."
"The priest's at home, boy, and may be seen;
'Tis easy speaking with Father Green;
But you must wait till I go and see
If the holy father alone may be."「私は王よりも祖国を愛している。もし神が望むなら私を闘いの中で死なせてください」とジェリーが歌うくだりは、彼の生き方や置かれている状況とあまりにも呼応していて泣かせる。
"I bear no grudge against living thing;
but I love my country above the king.
Now, Father! bless me,
and let me go to die in battle,
if God wills it so."参考資料1:1798 Ireland (songs)
1798年の反乱を研究しているサイト(英語)。反乱について詳しくはこちらをご覧ください。参考資料2:The Croppy Boy in Sirens
ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』第11挿話「サイレン」にもこの歌が登場するそうだ。
Ballynacor, Co. Wicklow
ジェリーのことを「ウィックロウ一の馬の乗り手だ」という台詞があるので、舞台設定もウィックロウらしい。
Daniel Day-Lewis .... Alex (Alexander Moore)
Christopher Fairbank .... Jerry (Jeremiah Crowe, Alexの友人)
Sian Phillips .... Mrs. Alicia Moore(Alexの母)
Alan MacNaughtan .... Mr. Frederick Moore(Alexの父)
Barry Foster .... Major Glendinning(Alexの上官・部隊長)
David Gwillim .... Bennett(Alexの友人将校)
Patrick Hannaway ....Sgt. Barry(Glendinning少佐の部下)
Kevin Moore .... Corporal O'Keefe(Glendinning少佐の部下)
Frank Williams .... Alexたち三人を咎めた少佐
Philip Fox .... 神父
Claude Le Sache .... Cafeのオーナー(フランス人)
Ray Callaghan .... Cave(音楽教師)
David O'Connor.... Jerryの少年時代
Oscar O'Lochlainn.... Alexの少年時代
Martin Burns.... フィドラー
アイルランド大使館・・・歴史解説のページが参考になる
『アイルランド問題とは何か』鈴木 良平 (著) / 丸善ライブラリー新書
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原作:_How Many Miles to Babylon?_ by Jennifer Johnston
Penguin Books ; ISBN: 0140119515 ; (1988/09/01)Jennifer Johnstonは『青い夜明け』The Dawning (1988) として映画化された_Old Jest_の著者。
(1982年 イギリス 111分)
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