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タイトル*


『レディ・カロライン』 Lady Caroline Lamb (1972)

監督・脚本:ロバート・ボルト

■Story

19世紀初頭のイギリス。政治家ウィリアムと結婚したカロラインは詩人のバイロンに恋をし、そのスキャンダルは社交界の嘲笑の的に。移り気なバイロンはしだいにカロラインを疎んじるようになるが、ひどい仕打ちをされてもあくまで彼の後を追い続ける。やがてこの醜聞は夫の政治生命を左右するほどの問題にもなり、カロラインは単身ウェリントン公爵を訪ねるが・・・。

『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』『わが命つきるとも』などで脚本を担当したロバート・ボルトの初監督作品。妻のサラ・マイルズが狂おしいまでの恋に破れた女性の悲劇を演じる。ローレンス・オリヴィエ、ジョン・フィンチ、リチャード・チェンバレン、ジョン・ミルズ・・・と豪華オールスターキャスト。

■Check!

□カロライン・ラム(検索用:キャロライン・ラム)

Lady Caroline Lamb (1785-1928)
1785年カロラインは、アイルランド貴族の第三代Bessborough伯爵Duncannon 卿とその妻Henrietta Ponsonby(初代スペンサー伯の娘)の第三子として生まれる。母の体調が思わしくなかったことから、カロラインは母方のおば第五代デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ(1757-1806)に養育され、ロンドンにある彼女の屋敷デヴォンシャー・ハウスで過ごすことが多かった。このデヴォンシャー・ハウスは当時ホイッグ党の政治家がよく出入りしており、ホイッグ党の気鋭の政治家ウィリアム・ラムと出会ったのも自然な成り行きであった。ウィリアムとは17歳で結婚。カロラインがデヴォンシャー・ハウスの女主人の姪ということで、メルバーン伯爵夫人は政界でのし上がるためのコネを求めてむしろ積極的に息子とカロラインの縁談を進めたという。

ウィリアムは1806年に議員に初当選し、政界入りしたために妻を構う時間が取れなくなっていた。カロラインは二度出産したがひとりは死産、一人は精神に障害があった。バイロンと出あったのは27歳の時のこと(1812年)。カロラインはバイロンと会う以前にすでに『チャイルド・ハロルド』を読んでおり、ホランド卿夫妻のパーティーで初めて対面した。しかし蜜月はおよそ四ヶ月で終わりを告げ、バイロンが疎んじるのにもかかわらずその後四年間彼を追い続けた。結局、バイロンはウィリアムのいとこ(メルバーン夫人の姪)アナベラ・ミルバンク嬢と結婚する。カロラインは1816年に小説『Glenarvon』を、続いて1922年に『Graham Hamilton』、1823年に『Ada Reiss』を出版。 1925年、40歳でウィリアムと離婚。その三年後1928年に早世するが、死の床にはウィリアムが駆けつけたという。 ウィリアムがメルボーン子爵の称号を受け継いだのは、カロラインの死後。以後、再婚もせず政治の世界に邁進していった。

□ロマン派の詩人バイロン卿

George Gordon, Lord Byron(1788-1824)
1788年放蕩貴族の子としてロンドンに生まれ、子供の頃から経済状態はひどく逼迫していた。先代の男爵や跡継ぎが相次いでなくなり、彼はわずか10歳にして第六代男爵となり、1801年ブリック・スクールのハーロー校に入学、続いてケンブリッジに進学した。脚に障害があったにもかかわらず、ボクシングなどのスポーツが得意だったという。

処女詩集『折々の記(Fugitive Pieces)』、それに続く『怠惰の時(Hours of Idleness)』など初期の作品はさっぱり売れなかった。ケンブリッジ卒業後、グランドツアーとしてスペイン、イタリア、トルコ領ギリシャを回る。

(ボクシング興行に飛び入りで参加する場面があるが、この時パブリック・スクールのハーロー校出身であること、トルコに行っていたことも語っている。有名になる前なので、持ち合わせもほとんどなく、食べるのにも困っていてカロラインとバイロンがレストランに食事をしに行ったときも、バイロンはじゃがいもとヴィネガーしか頼まないほどだった。斬首されたという唯一の親友のしゃれこうべを部屋に飾っているというエキセントリックな面も。)

バイロン卿を有名にしたのが出世作『チャイルド・ハロルドの巡礼(Childe Harolde's Pilgrimage)』。「ある朝目が覚めてみると有名になっていた」という有名な台詞は、この作品の成功によるもの。出版社に高額な報酬を要求し、社交界の注目の的となり、多くの女性たちと浮名を流した。

カロライン・ラムとのスキャンダルは世間の注目の的となったが、カロラインの夫のいとこであるアナベラ・ミルバンクと1815年に結婚(映画ではホランド胸のパーティーでミルバンク嬢を見初める)。しかしバイロンの実の姉にして人妻のオーガスタ・リー(Augusta Leigh)との情事は結婚後も続き、アナベラは1年で実家に帰ってしまった。

その後1816年にバイロンはジュネーブ湖のほとりにある別荘に移り住み、詩人のシェリーと知り合う。この別荘でシェリー、その妻メアリー・シェリー、バイロンの愛人となるメアリーの異母妹(継母の連れ子)クレア・クレアモン、バイロンの主治医ポリドリと過ごした嵐の夜について、これまで何度か映画化されている。ここでの体験をもとにメアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を、ポリドリは『吸血鬼』を書いた。
1823年にギリシャ独立運動に参加、翌1824年ギリシャで病死する。

バイロンが登場する映画:『ゴシック』Gothic(1986) ,『幻の城』Rowing with the wind(1988)

□メルボーン子爵ウィリアム・ラム

William Lamb, Viscount Melbourne(1779-1848)
初代メルボーン子爵の嫡子とされているが、実際は母の浮気で出来た子どもらしい。カロラインとは1825年に離婚。 映画の中でも気鋭の政治家として描かれていたが、後に首相として政権をとることになる。

ヴィクトリア女王の信頼も厚く、ホイッグ党のメルバーン内閣(-1839)から保守党のSir Robert Peel内閣への政権交代が、女王の反対によって二年も空転したことが知られている。

アイルランド相の地位を打診される場面があるが、イギリスとアイルランドは「連合王国」としてひとつの国になったのは1800年のこと。まだまだ統治の難しい地域を治める大役だったことだろう。

Brocket Hall, Welwyn, Hertfordshire
初代メルボーン伯爵の妻(ウィリアムの母)は摂政皇太子(後のジョージ四世)の愛人で、皇太子もしばしばこのブロケット・ホールを訪れたという。皇太子からの贈りもであるレイノルズの絵画は、現在もthe Prince Regent Suiteと呼ばれる部屋に展示されている。のちに第二代メルボーン卿ウィリアムが首相の座にあった頃、ヴィクトリア女王もしばしばこの館を訪れた。サッチャー元首相も回顧録を書く際、ここに滞在したとか。
Brocket Hall, Welwyn, Hertfordshire
http://www.brocket-hall.co.uk/

□ジョージ・カニング(1770-1827)

「女優の子に世道はわかりません」などと言われていたカニングも、後に首相の地位につくことに。
1812年以来15年間首相の座にあったトーリー党のリヴァプール伯爵が1827年に病気を理由に辞職したのをうけて、同じトーリーのカニングが組閣したが、不幸にも在任五ヶ月で急死してしまった。次のゴドリッチ内閣も五ヶ月と短命に終わり、1828年1月、ウェリントン公爵が政権につく。

□ウェリントン公爵

イギリスの対ナポレオン戦争の英雄といったら、1805年のトラファルガーの海戦で大勝利を収めたホレイショ・ネルソン提督(映画『美女ありき』 That Hamilton Woman(1941))と、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公爵が名高い。

ウェリントン公爵ことアーサー・ウェズリーは、1769年初代モーニントン伯爵ガレット・ウェズリーの五男としてアイルランドのダブリンに生まれる。チェルシーのプレップ・スクールから名門パブリックスクールイートン校に進む。1781年父の死去に伴ってイートン校を中退し、ブリュッセルで軍人としての教育を受ける。「ワーテルローの勝利はイートンの校庭で勝ち取られたものだ」というパブリックスクール生活の苛烈さを表した有名な台詞は、彼自身がイートンで学んだことによるものか。
1828年1月、首相となるが、二年後の1830年9月に政権を投げ出す。

□二大政党:トーリーとホイッグ

当時のイギリスの二大政党は、トーリー(保守党)とホイッグ(野党・ウィッグと表記する本も)。

□公然とした愛人関係

貴族や王室の社会では不倫や愛人関係もある程度許容されていたが、それでもカロラインのようなケースは問題になったようだ。

ウィリアムが母親にカロラインのことを話題にした場面:
ミルボーン夫人:「あの娘の母親も叔母も悪名高い売女だったわ。」
ウィリアム「私が知っている限り母上も二人の男の愛人になっていたよ。」

ミルボーン夫人もエグレモンド卿、ハートレイ、現在の国王ジョージ四世の皇太子時代・・・と多くの愛人関係を持っていた。それでいてカロラインの母(Lady Bessborough)の相手は酔いどれ劇作家と非力な急進党員だったと馬鹿にするのだ。

「母上は5年皇太子の妾をしていたのに得るものばかり。カロラインはたった一度の過ちで社会から脱落した」
カニングが首相となり、組閣にあたってウィリアムの入閣もほぼ確実となっていたのだが、国王に「カロラインと離婚しなければ入閣できない」と条件をつけられる。「政治家は妾も貧乏も許されるが、不貞な(notorious)妻は許されない」と。

注1:カロラインの母=第三代ベスバラ伯爵夫人ヘンリエッタ
注2:カロラインの叔母=第五代デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ(1757-1806)
ジョージアナは初代スペンサー伯爵とその妻Georgiana Poyntzの第一子。17歳のときに第五代デヴォンシャー伯爵と結婚する。ロンドンのデヴォンシャーハウスはホイッグ党の政治家たちの社交サロンの様子を呈しており、彼女の周囲には政治家たちの出入りが絶えなかった。

ジョージアナの友人エリザベス・フォースターは後に公爵の愛人となり、三人は25年もの長きにわたって一つ屋根の下で奇妙な三角関係を保っていた。1785年には二人揃って公爵の子を出産している。ジョージアナのギャンブル好きや浪費ぶりは有名で莫大な借金を作った。また彼女は第二代グレイ伯爵と愛人関係にあり、一子をもうけている。

■Awards

英アカデミー賞(BAFTA)2部門ノミネート:助演男優賞(Ralph Richardson)、美術賞(Carmen Dillon)

■ロケ地

Chatsworth House, Derbyshire
カロラインは第五代デボンシャー公爵の姪にあたり、現在でもチャッツワースハウスには彼女の肖像画がかけられている。
www.chatsworth.org

Brocket Hall, Welwyn, Hertfordshire
www.brocket-hall.co.uk

Wilton House, Salisbury

イタリア(新婚旅行)

■キャスト

Sarah Miles .... Lady Caroline Lamb(1785-1828, 旧姓Lady Caroline Ponsonby)
Jon Finch .... William Lamb (ホイッグ党政治家・カロラインの夫)
Richard Chamberlain .... バイロン卿(詩人)
John Mills .... George Canning (政治家・ウィリアムの友人)
Margaret Leighton .... Lady Melbourne(ウィリアムの母)
Pamela Brown .... Lady Bessborough(カロラインの母・べスバラ伯爵夫人)
Silvia Monti .... Miss Millbanke (メルボーン夫人の姪・のちにバイロンの妻に)
Ralph Richardson .... 英国王ジョージ四世(1762年生まれ、在位1820-1830)
Laurence Olivier .... ウェリントン公爵

Michael Wilding .... Lord Holland(社交界の名士)
Fanny Rowe .... Lady Holland
Maureen Pryor .... Mrs. Butler (カロラインのメイド)
Bernard Kay .... Benson(ラム家の従僕)
Nicholas Field .... Harry St. John(ウィリアムの友人)
Stephen Sheppard .... Sir James Buckham(ウィリアムの友人)
Janet Key .... Miss Fairfax (カロラインの友人)
Sonia Dresdel .... Lady Pont (ウェリントン公爵に甥の推薦に来た婦人)
Charles Carson .... Potter (カロラインが呼んだ弁護士)

■参考資料とソフト

The Regency Collection
リージェンシー時代の歴史・人について詳しく解説しているサイト(英語)。カロライン・ラムやバイロンなどについて、こちらに詳しい情報が載っています。おすすめ。

『とびきりお茶目な英文学入門』テランス・ディックス著/ちくま文庫
『イギリス名宰相物語』小林章夫・著/講談社現代新書
『英国王室史話』(下巻)森護著/中公文庫

(1972 イギリス 123分)


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